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2005.03.30

中間的共同体の再構築を!その2

sivadさんから前のエントリーにトラックバックを頂いた。sivadさんも『哲学』の中身。で、内田先生のブログの「中間的共同体」について書かれている。そこで、もう少し「中間的共同体」について考えてみた。

ウィキペディアによると、共同体とは、英語で言うcommunity、ドイツ語ならdie Gemeinschaft(ゲマインシャフト)で、地縁、血縁集団のことだそうだ。

ドイツの社会学者フェルディナンド・テンニースの定義によれば、ゲマインシャフトとは、他者と感情的に結合して共同生活をおくろうとする生得的な本質意志から生じる集団で、全人格的な結びつきを特徴とする。家族、民族、中世都市、教会など。(森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社より)

それに対してゲゼルシャフトは、何らかの目的を達成するために共同で生活しようとする理性的な選択意志から形成される集団で、打算的、契約的な結びつきを特徴とする。株式会社、大都市、国民国家など。

内田先生の考えておられる「中間的共同体」とは、これまで先生がお書きになったものから推測すると、sivadさんが危惧しておられるような「旧来的な家族制度の復活、ムラ社会の復建」ではないと思う。内田先生は常々「個人の多様なあり方が認められる社会」をよしとされておられるので、日本の「ムラ社会」的な、共同体の成員である各個人よりも共同体自体が優先されるような抑圧的な共同体を志向されることはないだろう。

そういえば内田先生は、死のロード初日において、「自分に代わって決定し自分に代わってリスクを引き受けてくれる複数の中間的共同体=「強者連合」について言及されている。これが具体的にいかなるものを指すのか、よくわからないが、例えば「政官財の鉄のトライアングル」などはその一つなのだろうか。

一方、「社会的弱者の救済のためにも、個人のデシジョンを限定する代わりにリスクをヘッジする中間的な共同体(金井淑子さんが提唱している「親密圏」というのはそのような共同体の一つだろう)の創設が喫緊の政治的課題」というのは、希望格差社会で書かれていたことと符合する。

内田先生が具体的にどのような「中間的共同体」を構想しておられるのか、お聞きしてみたいものである。先生御自身にとっては、「大学」がそのような「中間的共同体」に該当するのであろうか。他の大学へ移られるという話が聞こえてこないところをみると、居心地のいい共同体なのだろう。

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2005.03.25

中間的共同体の再構築を!

内田先生が、山田昌弘『希望格差社会』筑摩書房 という本について言及されている。オカダも興味があって先日読んだところだった。

現状の日本社会を「希望格差社会」とネーミングした著者のセンスには感心したが、確かに読み終わって暗澹たる気持ちになった。

しかし問題は、このような「リスク社会」が到来したのはなぜかという点だ。この本の著者の山田氏は、その原因をロバート・ライシュの提唱する「ニューエコノミー論」に求めている。だがそれは、オカダにとっては見当違いと思われる。

そもそも現在の日本の15年に及ぶ不況は、政府が誤ったマクロ経済政策をとって、バブル経済を生起させ、かつそれを急激にしぼませてハードクラッシュを起こさせ、なおかつうまく景気を浮揚させることができなかったことによる。

その結果、企業は自らの生き残りのため、労働者の解雇、賃金引き上げといったいわゆるリストラ、新規採用の削減、正社員のパート・派遣社員へのシフトを行ってきた。その最大の犠牲者が現在の若者たちなのである。

それでも、現状が『希望格差社会』であることについてはオカダにも異論はない。ならその解決策はないのか。内田先生は、中間的共同体の再構築を提案しておられる。「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される、とおっしゃる。目のつけどころがさすがである。

オカダが住んでいるのは田舎であり、まだまだ地域住民の繋がりが強く残っている。地域住民が助け合いながら共に暮らしてゆくことは個人のリスクを軽減する上でもとても良いことだと思う。中間的共同体としての地域コミュニティをより良いものにするのはどうしたらよいか、これから考えていきたいと思っている。

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2005.03.17

Windows98 update でやられた!

15日、セキュリティホール対応ということで、Windows98のupdateを実行した。

ところが、起動すると固まってしまう。Alt + Ctlr + Delを押してもブルースクリーンになってしまい、僕も真っ青になる。

もしやと思いSymantec の InternetSecurityをはずしてみたら、起動できるようになった。しかしこれでは危なくてインターネットに接続できない。今さらながら、ネットに接続できないというはなんと不便なことかと思い知らされる。

別のPCでネットにつないで調べてみると、やはり同様のことが起きていて、Windows98のupdateのせいのようだ。Windows98 Q891711 のアップデート をアンインストールすると、正常に戻った。まったく、マイクロソフトめー、あれこれ試行錯誤してムダにした時間を返せー。

うさ晴らしに、ネットでニューPCを注文。CPU比で現行PCの6倍の性能UPになる計算だが、如何に。届くのが楽しみ。

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2005.03.11

鹿島茂先生もえらい

週刊文春3月17日号の「私の読書日記」のコーナーで、鹿島茂氏が内田先生の『先生はえらい』を評されている。鹿島氏曰く、「これは名著である」。さらには、「昨今の大学改革の『学びの主体性』論議に痛撃を与える真の教育論である」と結んでおられる。

鹿島氏は共立女子大学文芸学部教授だそうだが、『先生はえらい』を名著と判断されるとはさすがである。そのコーナーでは、先にシュルレアリスム作家ジュリアン・グラックの『ひとつの街のかたち』という本を「街路のシュルレアリスム」というキー概念でもって紹介し、次いでシュルレアリスムの「誤解という方法」を精神分析に応用したジャック・ラカンについて言及し、そして『先生はえらい』評へと筆を進めておられる。その話の展開は、さすがはフランス文学者と思わせる。

『先生はえらい』はbk1の新書ランキングで11位と、かなり売れているようだ。まさに洛陽の紙価を高めるとはこのことだろう。

そういえば、『先生はえらい』の中で夏目漱石の『三四郎』に出てくる先生のあだ名が、p144では「偉大なる暗闇」とあり、p153では「大いなる暗闇」とある。どちらが正しいのか、どちらも出てくるのか、原典をすぐに参照できる環境にないので、そのうち調べてみようと思っていたが、ネットで検索してみると、青空文庫で全文を読むことができた。調べてみると、「偉大なる暗闇」の方が正しいようだ。まあ、どっちでも同じようなものではあるが、これで夜ぐっすり眠れるというものだ。

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2005.03.09

『先生はえらい』

内田樹先生の『先生はえらい』ちくまプリマー新書 を読む。

まず何より、「先生はえらい」という発想自体が素晴らしい。先生が御自身のblogでも書かれていらっしゃるように、現在の日本において「先生」が誉められることはほとんどないように思う。唯一の例外といえば、暴漢に襲われて亡くなられた先生くらいだろう。つまり、そこまでしなければ誉められないということだ。あのヤンキー先生ですら、周囲との軋轢で教師を辞めざるをえなかったように。内田先生は、そのような「先生」に対して励ましの気持ちを込めてこの本をお書きになられたのだと思う。その姿勢は、かつて「日本の正しいおじさん」を擁護するために『「おじさん」的思考』をお書きになられたときから一貫しているようだ。

次いで、この本での「先生」についての定義が素晴らしい。それは、「あなたが『えらい』と思った人、それがあなたの先生である」というものだ。内田先生は、『「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません』と断言する。学ぶ側の、誰も知らないこの先生の素晴らしいところを私だけは知っている、という「誤解」からしか師弟関係は始まらないと言う。つまり、先生がえらいかどうかは学ぼうとする者の主観的な判断によるということだ。常識的に考えれば、周囲の人々がある程度客観的にえらいと評価した先生が「えらい先生」ということになるのだが、この本では逆になっている。その逆転の発想こそ、内田先生しかなしえないものだと思う。

この本は、中高生のみならず、先生について何かを学ぼうとする全ての人に読んでもらいたい。ほら、あなたの先生は、こんなにも素晴らしいんですよ。

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