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2011.12.16

『呪いの時代』

Syakoba1216

いよいよ今年もあと2週間ほど。こちらも今日はぐっと冷え込んだ。シャコバサボテンの花が咲き始め、ついに本格的な冬がやってきた。

きのうから年賀状の受付が始まり、オカダはとりあえず半分を投函した。手間の掛かる残り半分も、早めに出してしまいたい。来年こそ15日に全部投函したいなあ。

そういえば、きのう喪中欠礼のハガキが届いてひやっとしたけど、まだ出してない相手からだったのでほっとした。こういうことがあるからあまり早く出すのも考え物かも。

そんな中、ようやく内田樹先生の 『呪いの時代』 新潮社 を読み終わった。お忙しいのによく書けたなあと思ったら、月刊雑誌『新潮45』に不定期に寄稿したものに加筆修正したものだった。

第1部は「日本のことを考える」、第2部は「未曾有の震災の後に」で、全部で11章からなっている。全体の主題は「呪詛」と「贈与」だそうだ。

そして第1章「呪いの時代」は、「『呪い』は今や僕たちの社会では批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあります」という一文で始まる。メディアに呪いの言葉。が溢れている状況と、それに対して呪いを解除する方法について述べている。

全編通して、まさに卓見。相変わらずラディカルで切れ味鋭い批評はさすが。特にこの第1章と第10章の「荒ぶる魂を鎮める」は圧巻の現代文明批評だった。

オカダも、「呪いの言葉」を使うのを避けて、できるだけ祝福の言葉を使うようにしたい。

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2011.12.09

内田樹先生講演会「伊丹十三と『戦後精神』」その2

<前回の続き>

柴五郎は、会津藩出身の軍人。映画『北京の55日』は、義和団事件を題材にしたもので、そのとき活躍したのが、日本軍を指揮した柴五郎。彼は、会津魂、サムライ的エートス(性格・習性など、個人の持続的な特質)を持っていたいう。陸軍士官学校では秋山好古と同期だった。柴の勇敢さと礼儀正しさは各国に賞賛され、日英同盟成立のきっかけをつくった人物と言われている。

#「柴五郎」で検索したら、内田樹先生の2007年1月2日の記事「柴五郎のこと」がヒットした。こちらも是非お読み下さい。

この柴五郎こそ、伊丹氏にとって心に足る日本人であり、理想の人物だったのではないか、と先生はいう。

『日記』では、日本のミドルクラスの醜悪さ、陋劣さ、自己規律のなさ、を厳しく批判している一方で、日本の伝統的、儒教的な美点についての礼賛も繰り返し書かれている、という。

また、ヨーロッパ人の、自国文化に対する誇り、愛着を持つ態度を繰り返し賞賛している、とも。

そして、日本の伝統的な質の高いものに対する敬意が、敗戦によって失われてしまったことに対する憤りを読み取れるそうだ。

つまるところ『日記』は、「日本人よ気概を持て」と、日本人全体を教化いようとした「呼びかけ」だったのではないか、というのが先生の推論。

先生は、伊丹氏は「ノーブル」な人だった、という。伊丹氏が映画で、それまで誰もできなかった、暴力団や宗教といったタブーに切り込む勇気を示したが、その勇気を担保したものは、「我々は醜悪であってはならない」という、サムライ的エートスだったという。

そして、村上春樹の『1Q84』を例に引き、伊丹氏もまた、非人間的なものの進入を防ぐという意味で「境界を守る人」すなわち「センチネル」もしくは「キャッチャー」だったという。

今の日本には「境界を守る人」がどんどん少なくなっていて、「呪いの言葉」が巷に溢れているという。

だから、今現在「境界を守る人」として活動している人は、どうか頑張ってください、というエールの言葉で、講演を締めくくった。

先生は終盤、「ついつい真面目な話に終始してしまいました」と言っていたけど、非常に内容の濃い、高度な内容の話だった。一冊のエッセーから、ここまで豊饒な意味を汲み取ることができるとは、さすがは内田先生。一応メモを取りながら聴いたのだけど、どれだけ理解できたか、そしてそれをこの記事で再現できたか、非常に心許ない。

先生の声は、以前インターネットで聴いたことがあったのだけど、そのときの印象と比べてかなり流暢かつマイルドで、話し慣れてる人の声だと感じた。

とにもかくにも、こうして先生の生講演を聴くことができて、本当によかった。凱風館も、いつか訪れてみたいなあ。

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2011.12.02

内田樹先生講演会-伊丹十三と『戦後精神』

11月29日に開催された内田樹先生の第3回伊丹十三賞受賞記念講演会を聴きにいった。開場時間の少し前に会場に着くと、既に長蛇の列。約900人収容可能のホールは、忽ち満員に。客層は若者から年配まで幅広かったけど、やや年配の人が多い感じだった。

定刻になって、まず伊丹十三記念館の館長で女優の宮本信子さんが挨拶。ストールを巻いてシックな出で立ちだった。今日の講演会の申込みは、ものすごく多かったそうだ。そして内田樹先生を呼び込んだ。

先生は、ダークグレーのスーツにブルーのボタンダウンシャツ、紺系統のチェックのネクタイ、ズボンにはサスペンダーというスタイルで登場。

お二人は空港で落ち合い、『海鮮北斗』というお店で昼食を共にした後、記念館を訪れたそうだ。そして、館内で会ったお客さんに、「先生、『海鮮北斗』で御食事されたんですね」と声をかけられたとのこと。それは、先生がツイッターでつぶやいたのを読んでいたからだそうだ。

その後、いよいよ先生の講演が始まった。先生は、ツイッターでもつぶやいていたとおり、講演直前まで話す内容が決まらなかったとのことで、「こういう時は「なぜ伊丹十三について語ることに私は困難を覚えるのか?」という問いから始めるというのが、割りとうまくいくんです」ということで、そこから話を始めた。

講演に向けて大量のメモ書きを書いたけど、うまくまとめることができなかったそうで、それは、できあいの自分のスキームではまとめることができないということだから、そういうときには次数を一つ繰り上げて考えてみるのが有効だという。それが、「なぜ伊丹十三について語ることに私は困難を覚えるのか?」という問いから始める、ということだそうだ。

まず先生は、1933年生まれで、終戦時12歳だった伊丹氏の「戦中派」としての世代的傾向に注目した。32年生まれの江藤淳も同世代だという。少年期、戦争の大義を信じていた伊丹氏は、敗戦によってそのイデオロギーが崩壊するのを目の当たりにした。そこで伊丹氏は、その戦前に残した「半身」を奪還する試みを行おうとしていたのではないか、という。それは、戦前にあって、戦後もなお生き延びさせることの可能なものを探し続けるということだった、と。

そして先生は、十代の頃伊丹氏の『ヨーロッパ退屈日記』やその他のエッセイを何度も繰り返し読んだそうだ。そして、この『日記』の中に書かれていないことに注目した。

伊丹氏のヨーロッパ滞在は、映画『北京の55日』のスクリーンテストを受けるためのものだった。この本には書かれていないけど、伊丹氏は「柴五郎」の役をどうしても演じたかったのではないか、という。

<長くなったので、続きます>

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