2005.04.21

ドロシー・ロー・ノルト「子ども」

ブログサーフィン(とは言わないのだろうか?)していたら、愛子さん関連で話題になったドロシー・ロー・ノルトの「子ども」という詩に関する ハナログ [子どもとメディア]例のポエム という興味深いブログを見つけた。

その中で鷲谷花さんは、

中学の教科書に載せられている、ということは、主に「子ども」の読者に読ませるためであるわけですが、確実にその中にいるであろう「批判された子ども」「殴られて成長した子ども」「笑いものにされた子ども」「皮肉にさらされた子ども」は、では、この詩を読んでどのように感じるのか?

と書かれていて、ちょっと意表を衝かれた気がした。オカダはこの詩を、ドロシー・ロー・ノルト『子どもが育つ魔法の言葉 』PHP研究所 で読んでいて、親に対する、このように子どもを育てなさいという教訓だと理解していた。だから、当の子どもに向けられたものだとは考えていなかったのだ。

それでは、なぜこの詩が中学の教科書に載せられているのだろうか。 さっそく アーネ・リンドクウィスト/ヤン・ウェステル著、川上邦夫訳『あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書』新評論 を読んでみた。

この詩が載っているのは、第5章 私たちの社会保障の 第3 家族での生活 の中の「子どもと家族」という項目。この中では、私たちにとって最も大事なグループは、家族だということが書かれている。しかし、後半で「あなたは、ここに述べられたような、家族についての積極的な評価に抗議したくなるかもしれません。あなたは、幸福な家族もあれば、そうでない家族もあることを知っています。」と書かれている。

そして「課題」のコーナーで、「4,あなたは、詩『子ども』のどこに共感しますか。激励や賞賛が良くないのはどんなときですか。この詩は、大人にたいして無理な要求をしていませんか。両親が要求にたいして応え切れないのはどんなときか、例を挙げましょう。」と書かれている。

つまりこの詩は、家族、もっと端的に言えば親子について考えるための教材として取り上げらているのであり、決して手放しで賞賛しているのではないということだ。何よりすごいのは、中学生に対して、親の立場になって考えてみようと言っている点だ。

鷲谷花さんの疑問に即して言えば、「批判された子ども」「殴られて成長した子ども」「笑いものにされた子ども」「皮肉にさらされた子ども」に、なぜあなたの親はそうしたのか考えてみよう、と言っているというこどだ。

この本にあるのは、鷲谷花さんが危惧する「実際に虐待を生きのびてきた子どもらの「現在」を否定する」という視点ではないと思う。「いい親もいれば、そうでない親もいる」という当たり前の事実について考えさせるものだろう。

では、実際に虐待を生きのびてきた子どもらはどうすればいいか。この本では、「若者のほとんどは、家族から離れて何もかも自分でできるように早く大きくなりたい、という欲求を感じているものです。」と現状を記述している。これはつまり、早く独立しろと促しているということだ。

内田樹先生がどこかに書かれていた(と思うのだ)が、子どもというのは何でも他人のせいにするもののことだそうだ。その論理で言うと、この教科書は、正しく「早く大人になれ」、と言っているように思う。

ともかく、鷲谷花さんの「子ども」からの視点、という捉え方は、非常に勉強になった。実はオカダも、単純にこの詩はいいと考えていたからだ。

それにしても、最近のものは知らないのだが、日本の中学の教科書(公民)に、「幸福な家族もあれば、そうでない家族もある」なんて風にさらっと書いてあるのだろうか。そもそも、あまり「家族」について勉強した覚えがない。

この項目の次は「離婚」について。最初の章は「法律と権利」で、犯罪について詳しく書かれている。訳者がまえがきで、この本を読んで感動したと書いているが、確かに優れて実用的ないい教科書だと思う。

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